石川啄木は明治39年から1年間、渋民尋常小学校の代用教員をしていたことがあったため、その近くには啄木の歌碑がある公園や記念館があり、観光できるようになっている。
私は、尋常小学校後の渋民小学校で学んだので、啄木の短歌や詩は授業で教わったり記念祭の際には全校生徒が参加したり、と啄木は身近な存在だ。短歌は、相当覚えた?覚えさせられた?ので、今でもいくつかはそらんじることができる。
そこで、私の懐かしの場訪問ってことで、公園と記念館に行ってきた。写真の歌碑には「やはらかに柳あをめる北上の岸邉目に見ゆ泣けとごとくに」とあり、これには後年になって曲もつけられたので渋小の卒業生は歌えるのである。
歌碑の奥に鎮座しているのは、百名山の岩手山、そして反対側には二百名山の姫神山が対をなすように座している。眺めは良好だ。
石川啄木記念館
啄木にまつわる遺品が展示されており、こじんまりとしているが直筆原稿など興味のある方は来館されたし。
実は、私は高校生の頃にこの記念館で臨時で受付のアルバイトをしていたことがある。ところが、私の通っていた高校はアルバイト禁止だったので秘密にしていた。
そんなある日、社会の先生が記念館にやってきた!バレてはまずいので友人と顔を伏せ声を低めにして、なんとか難を乗り切った。今から思えばなんてことないが、その時はドキドキのハプニングだったな。
石川啄木が、代用教員をしていた頃に住んでいた斎藤家。この2階に妻の節子と間借りしていた。
この家は町屋作りで、表の入り口から裏まで土間の通路になっていてそこに流しやら竈がある。畳敷きの部屋が手前から床の間付きのお座敷、次に常居(家族がいつも使う部屋)、納戸、台所と続き、一番奥に馬屋がある造りだ。
一般的に昭和初期までは、このような家で暮らしていたのだと思うと時代の変化による様変わりが急激だったと改めて感じた。